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2010/04/09

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論考を読む目的で買ったブツの後半に哲学探究の一部がおまけであったので,最近,Xilinx ISE 11.5 on RHELの_pnのUI freezeの面倒を見つつソイツを読むと言うエア激務をしていた.以下,おもろかった部分を引用.
三七
〔中略〕わたくしが「ブウブウブウ」というコトバによって「雨が降らなければ散歩に出かける」ということを意味することができるだろうか.––一つの言語のうちにあってのみ,わたくしは何かを何かによって意味しうる.このことは明らかに,「意味する」という語の文法が「思いうかべる」等の表現の文法とは似ていないこと示している.

五二
もしわたくしが,ねずみというものは灰色のぼろや塵埃から自然発生するのだと仮定しようとしているのであるならば,ねずみはどのようにしてそのぼろの中に隠れることができたのかとか,どうしてその中へ入れたのかとかいったことがらについて,そのぼろを十分に研究することが有益であろう.しかし,もしわたくしが,ねずみはそうしたものから発生するわけがないと確信しているのであれば,そうした研究はおそらく余計なものになるであろう.
しかし,哲学の中でそのような個々の事象に関する考察に反対しているものが何なのか,われわれはまず理解することを学ばなくてはならない.

六〇
いま「わたくしのほうきがその隅のところにある」といったとすると,––これは本当にほうきの把手と掃き出し部分に関する言明なのだろうか.ともかくも,人はこの言明を,把手の位置と掃き出し部分の位置について述べる言明で置き換える事ができよう.そして,そのような言明は,今や最初の言明を更に分析した形になっている.〔中略〕––誰かに向かって「ほうきを持ってきてくれ」という代わりに––「把手とそれが差し込んである掃き出し部分を持ってきてくれ」といった場合を考えてみよ.––これに対する答えは,「あなたはほうきが欲しいのか.それなら,なぜそんな奇妙な表現をするのか.」ということではないだろうか.〔中略〕

六九
〔中略〕
誰かがわたくしに向かって,「子供たちに何かゲームを教えてやってくれ」と言う.わたくしはかれらにサイコロ賭博を教える.すると,その人は「そんなゲームを教えてくれといった覚えはない」という.かれがわたくしに命令を与えたとき,サイコロゲームを除外することが,かれの念頭に浮かぶべきだったのだろうか.

八五
ある規則が立てられているとして,それが道しるべのようなモノであったとせよ.それはわたくしの行くべき道に関して何ら疑問の余地を残さないものであろうか.それは,わたくしがその側を通りすぎたとき,自分がどの方向へ行くべきか,つまり,街路にそってか,野道にそってか,それとも野道を横切って行くのかを指示するだろうか.だが,どのような向きでわたくしがそれにしたがわねばならないのかが,どこかに書いてあるのだろうか.その指の方向へということなのか,それとも(たとえば)その反対方向へということなのか.––それらにはたった一つの解釈しかないのだろうか.––だから,わたくしは,道しるべというものはそれでも疑問の余地を残さない,ということができる.あるいはむしろ,あるときは疑問の余地を残し,あるときには残さない,といえよう.すると,これはもはや哲学的な命題ではなくて,経験命題である.

八八
わたくしが誰かに向かって「どこかこの辺りに立っていろ」というとき,この説明は十分にその機能を果たしていないだろうか.果たしているとすれば,その他のあらゆる説明もうまくいかないだろうか.
「けれども,その説明はまだ不正確なのではないか.」––その通りである.なぜ人はそれを「不正確」と呼んではいけないのだろうか.われわれはただ「不正確」ということがどういうことを意味しているかを理解しよう.なぜなら,それは「使用不能」ということではないのだから.さらにわれわれは,かような説明との対比において,どのようなものを「正確な」説明と呼んでいるのか,とくと考えてみよう.たとえば,一つの区域をチョークの線で区切ることか.だが,そこですぐ思いつくことは,その線に幅があるということである.それゆえ,もっと正確なのは色の境界ということであろう.だが,そのとき,この正確さはなおも機能を果たしているだろうか.実は空回りしているのではないか.しかも,われわれは,どういうことをかかる正確な境界からの逸脱とみなしていいのか,どのようにして,いかなる器具をもって,それが確立さるべきなのか,等のことをいまだに決定していないのである.
〔中略〕
「不正確」ということは,もともと非難さるべきことであり,「正確」ということは称讃さるべきことである.さらに,このことは,不正確なものは正確なものほど完全にその目的を達成しない,ということである.だから,そこで何をわれわれが「目的」と呼ぶかが問題になる.わたくしが太陽までの距離を一メートルまで正確に述べず,家具師に机の幅を〇・〇〇一ミリまで正確にいってやらないと,不正確ということになるのか.
正確さの理想像など一つも用意されていない.それをどのように考えていいのか,われわれは知らない.––もし自分自身でそう呼ばれるべきものを確定していない限りは.しかし,そのような規定,自分自身を満足させるような規定にゆきあたるのは,むずかしいことであろう.

一〇七
〔中略〕––われわれはなめらかな氷の上にまよいこんでいる.そこには摩擦がないから,諸々の条件はある意味で理想的なのだが,まさにそのために,われわれは先に進むことができない.われわれは前に進むことを欲する.だから摩擦が必要なのだ.きめの粗い大地へ戻れ.

一二三
哲学の問題は,「わたくしは途方にくれている」という形をとる.

一二六
哲学は,まさにすべてのことに言及するのみ.何事も説明せず,何事も結論しない.––すべてが公然としているから,説明すべきこともない.なぜなら,隠れているかもしれないようなものに,われわれは興味をもたないからである.
およそ新しい発見や発明がなされる以前に可能なものをも,人は「哲学」と呼ぶことができよう.

二四九
なぜイヌは痛がっているふりをすることができないのか.誠実でありすぎるからか.イヌに痛がっているふりをすることを教えることはできるだろうか.おそらく特定の状況の下では,痛みを感じていないのに痛がっているようななき声を出すよう,教えることができるだろう.しかし,本当の偽装であるためには,この振舞いにはなお正当な周囲の条件が欠けている.

二五八
次のような場合を考えてみよう.わたくしはある種の感覚がくり返し起こることについて日記をつけたいと思っている.そのためにわたくしはその感覚を「E」という記号に結びつけ,自分がその感覚をもった日には必ずこの記号をカレンダーに書き込む.––まず第一に,わたくしは,この記号の定義を述べることができないことに気がつく.〔中略〕

二七〇
さて,自分の日記に「E」という記号を記入することの用途について考えてみよう.わたくしは次のような経験をする.すなわち,わたくしが一定の感覚をもつとき,血圧計がわたくしの血圧の上昇を示す.すると,わたくしは,器械の助けがなくても自分の血圧の上昇を明言することができるようになる.これは有益な結果である.そうすると,わたくしがその感覚を正しく再認したかどうかということは,もはや全くどちらでもよいことのようであるようにみえる.わたくしがたえずそれらの感覚の認定を間違えると仮定しても,一向に構わない.そして,このことは,こうした誤りを仮定することが単なる見せかけにすぎなかったことを既に示している.(われわれは,いわば,機械を動かすことができるかに見えるボタンをまわしたのだが,それは実は装飾品だったのであり,それと機械の機構は全然つながっていなかったのである.)
すると,この場合,どういう根拠によって,「E」がある感覚を指示しているというのか.おそらく,この記号が言語ゲームの中で用いられる方法によってであろう.––では,なぜ「一定の感覚」,つまり,そのたびに同じ感覚でなくてはならないのか.いや,われわれはそのたびに「E」と書く,と仮定しているのである.
哲学探究はヴィトゲンシュタインせんせーの後期思想と言われるモノらしいのだけれど,話題が日常に近いとかってのにも加えて,あいかわらず電波的と言うか,イイ感じにぶっ飛んでいるのでなかなか笑える. :DDD

個人的に付け加えておきたいのは,こーゆー思想の変遷を見て,単純に「じゃあ小難しく考える事ぁ無ぇじゃねぇかよ」と文句を言うのは見当違いだと思う.カントが人倫の形而上学の基礎づけでそーゆー輩を皮肉ってる言い回しはウマい.
通俗概念へのこのような下降は,純粋理性の原理への上昇がまず行われて申し分なく達成された後であれば,実際きわめて讃むべきことである.いいかえれば,道徳論をまず形而上学によって基礎づけ,かくて道徳論を確立した上で,それに通俗性を与えて人々に近づきやすくすることは,結構なことなのである.しかし,原則の正しさの一切がかかっている最初の研究においてすでに通俗性にすすんで心がけようとすることはきわめて不当である.ひとが根本的な知見をすべて断念するなら,誰にもわかるようにのべることは全く造作のなくできるのだから,はじめから通俗性を心がけるやり方は,真の哲学的通俗性というきわめてまれな長所をみずからのものだと主張することは決してできない.のみならず,そういうやり方は,寄せ集めの観察となまはんかな議論の原理との,厭なごた混ぜを生み出すのであり,これは確かに日常のおしゃべりには大いに役立つものを含むから,浅い考えの人々には喜ばれるが,物のわかった人々はそれに困惑し,不満ながらどうしてよいかわからずにそれから目をそむけてしまうのである.これにひきかえ,まやかしを十分見ぬいている哲学者たちは,見せかけの通俗性をしばらく離れてまずはっきりした知見を得た後にはじめて正しい意味で通俗的であることができるのだ,と人々に呼びかけるのだが,これに耳をかす者はほとんどいないのである.
とっても1337ishです,ウケる. :DDD

修正:若干のtypos.

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