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2010/01/17

LpA * (4.024/7)

「論理哲学論考」の4.024まで読んだ.つーか,本文の前のラッセルの解題...の前にある訳者による小伝がウケる. :DDD
ヴィトゲンシュタイン小伝



ヴィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の講師になった.『論考』が公刊されて既に10年の歳月が流れ,しかもその間,かれは一切の学問的活動を自らに禁じていたことを思い合わせると,いかにムーアやラッセルらの強力な推輓があったとはいえ,これは異例のことに属する.しかし,ヴィトゲンシュタインは,大学に教職を得たことを,とくに名誉とも,また喜ぶべきこととも思っていなかった.むしろ彼はそれを有難迷惑に感じ,さらには自らの職業に嫌悪を示しさえしたのである.自分は大学の教師に適していない.これは彼が親しい友人にしばしば洩らす愚痴であった.



ヴィトゲンシュタインは週に二回,授業をおこなうことになった.最初のうちは大学の教室を使い,のちには自宅の部屋で授業を行った.一回は講義に,一回は自由討論にあてられていた.そして,ケンブリッジでの講義は,途中数回途切れたものの,結局,1947年まで続くことになる.

一口に講義といっても,彼の場合,ありきたりのものとはわけがちがった.まずヴィトゲンシュタインはノート,メモの類を一切用いない.講義は時として,学生が前回の講義をまとめることからはじまる.次にヴィトゲンシュタインが,自分の選んだテーマについて,日頃考えていること――おそらく,その講義のために一週間考え続けたであろうこと――を一語一語,反芻するような仕方で話しはじめる.やがて彼は突然,語を切り,学生の一人に向かって話しかける.この点について君の意見はどうか.その学生の答えをもとにし,ヴィトゲンシュタインが批判・検討することで,彼の講義が再会する.しばらくたつとふたたび出席者に対して質問の矢が放たれる…….



時には講義はうまく進行しない.提出された問題があまりに難解であるために,ヴィトゲンシュタイン自身が混乱し,とまどってしまう.そのような折り,彼は「ちょっと待ってください.考えてみます」といったまま,椅子の端に腰を下し,身をかがめて考え込むのである.彼の苦闘は10分も20分も続く.周囲に沈黙の領する中を,俺は阿呆だ,とか,君らはひどい教師をもったものさ,とか,今日はなんてとんまなんだ,といった呪詛の言葉が彼の口からときどき洩れる.目は一点を凝視し,顔は厳しく,そして生気にみちている.彼は何ものかを捉えんとするかのように手を動かし,時折り,激しい苦悶の表情をしめす.それは,かつてヴィトゲンシュタインが親しい友人に洩らした言葉を,如実に示す態度であった.「人間は,年じゅう,躓いたり転んだり,躓いたり転んだりしているものなのさ.やることはただ一つ,起きあがってもう一度歩きだそうとすることだ.すくなくともそれが,私の一生やらなければならないことさ.」



ヴィトゲンシュタインは,生涯,妻を娶らなかった.理由は分からない.家庭の暖さを愛してはいたが,にもかかわらず,たえず孤独と放浪――精神の放浪も含めて――への激しい憧憬に駆られていたこの荒野の狼は,「家庭」という狭い檻には堪えられぬことを,本能的にさとっていたのかもしれない.炉辺の幸福は,彼にとってはしょせん,見果てぬ夢にすぎなかったのであろう.

彼を慕う女子学生も少なくなかった.しかしヴィトゲンシュタインは,彼女らに目もくれなかった,という話である.ケンブリッジに留学していたマルコムがアメリカに帰国するとき(このとき彼はまだ独身であった),ヴィトゲンシュタインが餞とした言葉がある.「何をしようと勝手だが,女の哲学者と結婚することだけは,よした方がいいよ.」


教職に就きたい中毒みたいなのに罹っていて,学術関係の予算がどーとか,大学院の環境があーだとか言っているヤツは,彼より情熱的に講義をして,彼より信念を持って研究しとるんかねぇ?悪いが予算や環境の事で文句垂れているうちはワシにはそう見えんぜよ.

2010/01/10

TLUG: goto utopia; /* wrong */

TLUGのテクニカルミーティングに行ってきた.相変わらず英語が聞き取れずに,前半でのネタで大笑いした後,気絶してた. :DDD
爆笑してたネタと言うのは,/etc/X11/xorg.confをバックアップする事で管理する方針を取った場合にどうなっちまうのかと言うモノだった.確かこんな感じだった.
$ ls /etc/X11
xorg.conf
xorg.conf.20090109
xorg.conf.bak
xorg.conf.bak.2
xorg.conf.bak.bak
xorg.conf.bak.bak2
xorg.conf.old
xorg.conf.old.bak
xorg.conf.old.bak2
xorg.conf.old2
xorg.conf.older
xorg.conf.oldest
一人でクソウケた. :DDD

全然カンケー無いけど,最近発見した上祐史浩オフィシャルサイトが香ばしい.釣りネタとしてはちょうど良いので晒しておく.「宗教かよ!」とか思うかもしれないけど,オレは無宗教でその手の徳は積んでないので,ポパーせんせーに登場してもらおう. :D
反駁



第十八章 ユートピアと暴力

暴力を憎み,暴力を減少させるために,また,もしできるならば,暴力を人間生活から除去するために働くことを,自分たちの最も重要であると同時に最も望む課題の一つであると確信している人びとは多い.わたくしは暴力に対するこの様な願望に満ちた敵の一人である.



二人の人間が対立するのは,かれらが意見を異にするか,利害を異にするか,あるいはその両方であるかするからである.社会生活には,なんらかの仕方で決着をつけねばならない多くの種類の不一致がある.



だが,どのようにして決着をつけることができるのだろうか.とりうる方法は,たいていの場合,ただ二つしかない.すなわち,議論(仲裁機関––たとえば,ある種の国際裁判所––に付託される議論をも含めて)と暴力,という二つの方法である.あるいは,衝突しているのが異なる利害である場合には,とりうる二つの方法は,合理的な妥協か,さもなければ,一方の利害を粉砕しようとする企てか,のいずれかである.

わたくしが合理主義者という名で呼ぶのは,暴力によってではなく,議論によって,ある場合にはおそらく妥協によって,決着をつけようと努める人である.つまり,合理主義者とは,暴力によって,威嚇や脅迫によって,あるいは口のうまい宣伝によってさえ,他人を粉砕するのに成功するくらいなら,むしろ議論によって他人を納得させるのに失敗する方がましだ,と考える人なのである.

わたくしが合理的態度といっているものは,議論によって人間を納得させようとすることと,宣伝によって人間を説き伏せようとすることとの相違を考えてみるならば,よりいっそうよく理解できるであろう.

その相違は,議論を用いるか否かということに重点があるのではない.宣伝もまた,しばしば議論を用いるのである.また,その相違は,われわれの議論は反論の余地のないものであって,分別のある人間なら誰もがそう認めるにちがいない,というわれわれの確信にあるのでもない.むしろ,その差異は,互酬互譲の態度,つまり相手を納得させようとするだけでなく,もしかしたら自分は相手に納得させられてしまうかもしれないという心構えをもつことにある.わたくしが合理的態度と呼ぶものは,次のような表現で特徴づけることができよう.「わたくしは自分が正しいと思うが,しかし間違っているかもしれない.そして君が正しいのかもしれない.とにかく,それを討論しあおうではないか.なぜなら,討論しあうことによって,お互いが自分は正しいのだとただ言い張っているよりも,真の理解によりいっそう近づける見込みがあるからだ.」



社会生活において互いに相手と対処しあう時,この合理的態度を実際に行動に移す場合にのみ,はじめて暴力を避けることができる,とわたくしは信じている.これ以外の態度はすべて––たとえ穏やかな説得でもって他人に対処し,自分の所有を誇るすぐれた洞察力にもとづく議論や実例によって,また自分がその真理性を絶対的に確信している議論や実例で相手を納得させようとする一方的な試みでさえ––おそらく暴力を生み出すであろう.いかに多くの宗教戦争が愛と優しさを説く宗教のために闘われたかを,われわれの誰もが覚えている.また,永劫の地獄の業火から人びとを救おうとする正真正銘の親切心から,いかに多くの人間が生きながら火あぶりにされたかを,われわれはよく覚えている.
こんなん言った後で,ポパーせんせーはユートピア主義をパネェくらいにボコボコにすんだけど,長いので割愛. :D

件のイカす上祐のサイトには,一連のオウム関係の事件の総括やらの内に,彼のオレオレ宗教観点からの似た様な考察が書かれている部分があったので,「ふーん,へー,ほー」とか思った.

ちなみにですね,彼の文章からは大層な事を学んだ様な感じを受け手に与える影響が深読み出来るんですが,上に引用したポパーせんせーの本は,"たった"6500円です.私は中古で買ったので多分もっと安いけど,値段は忘れた.まぁ,ゔぃみょーなオレオレ主張に耳を傾けるよりはカタい本を読んだ方がオレには分かり易かった. :D

修正:若干のtypos.

2010/01/06

void resolve(time_t year) { ... }

あ(略

去年から読んでいたポパーの「推測と反駁」を年末年始の休みに読み終わって,ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を少し読み始めた.会社のオレの机には幾つか本が飾ってあるのだけれど,今はその中の一つになってる.イイ感じに意匠になって大変宜しい.年度末までシミュレーションの激しく重いブツが続きそうなので,仕事をしているフリをしてチョコチョコ読む気満々だったりするのだったのだった. :DDD

で,新年の抱負でも書きますかね,書いておけばやるかもしれないからな.あんま”てくにかる”な事を書いても釣りネタにならないので,カントのネタで逝こうと思ふ.

人倫の形而上学の基礎づけ



第一章 通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移り行き

われわれが無制限に善とみとめうるものとしては,この世界の内にもまた外にも,ただ善なる意志しか考えられない.理解力や機知や判断力やその他いろいろに呼ばれるところの精神の才能および勇気や果断や根気強さなどという,気質の持つ特質は,確かに多くの点で善なるものであり望ましいものである.しかしそれらは,またきわめて悪いものや有害なものにもなりうる.すなわち,それら自然の賜物を使用する任務を持つ意志——したがって意志の固有の性質は(才能や気質を別にして)性格と呼ばれる——が,善でない場合である.



いくつかの性質は,この善なる意志そのものを力づけて善なる意志の仕事を大いに容易にすることさえもできるが,しかしそれにもかかわらず,内的な無条件な価値を決してもたず,善なる意志をどこまでも前提にするのである.善なる意志は,そのような性質に対して当然人々が抱くところの尊重の念に制限を加え,そのような性質を絶対的に善なるものと認めることを許さない.たとえば,感動や欲情の抑制,自制,冷静な考慮は,さまざまな点で善であるのみならず,人格の内的価値の一部を形成する様にさえみえる.しかしながら,これらの性質を無制限に善であると言うことはとても出来ないことである〔それらは古人の無条件の賛美を得たにせよ〕.というのは,善なる意志の原理を欠くならば,それらの性質はきわめて悪なるものとなりうるからであって,一人の悪者の冷静さは,彼が冷静でない場合よりも彼をはるかに危険なものたらしめるのみならず,また直接にわれわれの目にいっそう厭うべきものとうつるからである.
所謂西洋の刀剣の類いに比して日本刀を賛美する時,「折れず,曲がらず,よくキレる」ってのがある.何気にオレは刃物大好き男だったりするのだが,性格まで似ているのかもしれないとかエア思索した事があった.つまり,「(誰に叩かれようとも)折れず,(何を言われようとも)曲げず,(ちょっとしたことで)よくキレる」.

去年も仕事中に何度かプッツンするなど,なかなかエキサイティングしていた訳だが,性格はそう簡単には直らんわな,常日頃からちゃんとせねばならん.つー訳で,今年は頑張って逆刃刀で武装しようと思います. :DDD

修正:若干のtypos.