哲学の正しい方法 『論理哲学論考』はいかに理解されねばならぬか
六・五三 哲学の正しい方法とは本来,次のごときものであろう.語られうるもの以外はなにも語らぬこと.ゆえに,自然科学の命題以外なにも語らぬこと.––そして他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに,君は自分の命題の中で,ある全く意義をもたない記号を使っていると,指摘してやること.この方法はそのひとの意にそわないであろうし,かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが,にもかかわらず,これこそが唯一の厳正な方法であると思われる.
六・五四 わたくしを理解する読者は,わたくしの書物を通りぬけ,その上に立ち,それを見下ろす高みに達したとき,ついにその無意味なことを悟るにいたる.まさにかかる方便によって,わたくしの書物は解明をおこなおうとする.(読者は,いうなれば,梯子を登りきったのちに,それを投げ捨てなければならない.)
読者はこの書物を乗り越えなければならない.そのときかれは,世界を正しく見るのだ.
七 語りえぬものについては,沈黙しなければならない.
以下,蝶意訳.
必要以上に喋りまくる事は決して正しいことではない.オレオレ主張をする輩には,手前の打っている高説はナンセンスであるとdisっても良い.当の本人は憤慨するだろうが,そんなに気にしなくて良い.
この様な姿勢を取るにせよ,あるいはそれを批判するにせよ,少なくとも一時は多くの事が無意味であると言うエア悟りの境地に達する.これより先に進む元気があるならば,それら全てをブン投げてハイパー頑張らねばならない.
漢は背中で語るのである. :D
修正:若干のtypo.
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