で,中身は各所でなかなかカトリックな香りがする.宗教アレルギー体質な人にはあんまおすすめできんね,残念ながら.大約すんのもタルいので,ネタだけ.
方法序説 第六部
今から三年前,これらすべてを述べた論文を書きあげて,出版者の手に渡すために見直しをはじめていたときであったが,私がうやうやしく従い,私自身の理性が私の思想に対してもつ権威に劣らぬ権威を私の行動に対してもつ人々(ローマ法王庁の人々)が,少し前にある人(ガリレイ)によって発表された自然学上の一意見を非としたことを知った.ところで,私自身その意見をとっているとはいうつもりはないが,こうはいっておきたい,彼らの検閲の前には,その意見中に,宗教にも国家にも有害であると私に思えるような点は認められなかった,したがってかりに理性がその意見を私にとらせたとするなら,私にそれの発表を思いとどまらせたであろうような点は何一つ認められなかった,と.そして私は今まで,きわめて確実な論証なしにはいかなる新たな意見をも私の信念のうちにとり入れまい,だれかの不利になりそうな意見については何も書くまい,とたいへん注意をはらってきたものの,うえのようなことがあってみると,私の意見の中には誤っているものもやはりあるかもしれぬとおそれた,と.さてこのことは,私をして,私の意見を発表しようとする決心を変えしめるに十分であった.というのは,私が前にその決心をした理由はたいへん有力なものではあったが,本を作る職業をいつも嫌っていた私のもちまえの傾向は,その決心を捨てる口実となるような他の理由の数々を,私にただちに見つけさせたからである.そういうあれやこれやの理由を私はここで述べてみたい気がするが,私ばかりでなく世間の人々もまた,それを知りたいと思われるかもしれない.
〔中略〕
こうした考えがすべていっしょになって私を動かした結果,三年前には,私の手元にあった論文を世に示すまいと思い,さらに,生きている間は,この様に全般的な,また私の自然学の基礎を人々にわからせるような,いかなる他の論文も,けっして発表すまいと決心した.しかしその後また二つの別の理由が現われ,ここに若干の特殊な試論(屈折光学,気象学,幾何学の三試論)を書き,私の行動と計画についていくらかの説明(方法序説)を公にせねばならなくなった.
世界論 目次
第一章 我々の諸感覚とその諸感覚を生みだす事物との差異について
第二章 火の熱と光はなんであるか
第三章 堅さおよび流動性について
第四章 空虚について.また,われわれの感覚がある物体を知覚しないのはどうしてか
第五章 元素の数とその性質について
第六章 新しい世界の記述.その世界を構成する物質の諸性質について
第七章 この新しい世界の自然法則について
第八章 この新しい世界の太陽と星の形成
第九章 遊星と彗星の起源とコースの一般論.特に彗星について
第十章 遊星一般について.特に地球と月について
第十一章 重さについて
第十二章 海の干潮と満潮について
第十三章 光について
第十四章 光の諸性質について
第十五章 新しい世界の天空の様相は,そこの住人にとっては,われわれの世界の天空の様相と同じように見えるはずであること
件のガリレイの件は,カトリックをdisるネタによくされるみたいだけど,多分,その辺りの事をまともに把握している人ってあんまり多くないと思うんよね.ポパーせんせーはその辺りちゃんと把握している様ですごいと思うよ,毎度の事だけど.
推測と反駁
推測
第三章 知識に関する三つの見解
第一節 ガリレイの科学とそれに対する新しい裏切り
昔,ガリレオ・ガリレイという名の有名な科学者がいた.かれは,「検邪聖省」で裁かれ,自説を取り消すように強制された.このことは大変な騒ぎをひき起し,二五〇年以上もの間––世論が勝利をかち取り,教会が科学に寛容になった後にも,長らく––義憤や興奮をひき起し続けた.
しかし,今ではこれは極めて古い話になり,人々の関心を失ってしまったのではないかと思われる.というのは,ガリレイの科学にとって,敵は残っていないし,その生命は将来も安全に思われるからである.ずっと前にかち取った勝利が最終的なものだったのであり,その前線では全てが平穏である.したがって,現在のわれわれはその事件に対して,とらわれない見解をもっており,結局それを歴史上の出来事として考え,紛争の当事者たちの双方を理解するようになっている.だから,昔の怨恨を忘れることができないひとの,うんざりする話には誰も耳を傾けようとはしない.
しかし,結局のところ,この昔の事件は何に関するものだったのだろうか.それはコペルニクスの「世界体系」の身分に関するものであった.この「体系」によると,とくに,太陽の日周運動は単に見かけ上のものとされ,地球の回転によって生じるものとして説明されていた.教会は,この新しい体系が古い体系よりも単純であり,天文学上の計算や予測にとって便利な道具であることを,すすんで認めようとした.しかも,法王グレゴリウスの暦法改革には,この新体系が実際に十分利用されていたのである.したがって,ガリレイが次のこと明瞭に述べるかぎり,かれがその数学的な理論を教えることには,何の反対もなかったのである.かれが述べなければならなかったことというのは,その理論の価値が道具としての価値にすぎないこと,つまり,枢機卿ベラルミノが言ったように,その理論が「仮定」に他ならないこと,あるいは,「数学的な仮説」––「計算を簡略化し容易にするために発明され.仮定される」一種の数学的な手段––に他ならないこと,であった.言いかえると,アンドレアス・オシアンデルはコペルニクスの『天体の回転について』への序文で,「これらの仮説が真理である必要はないし,また,真理らしいものである必要もまったくない.むしろ,これらの仮説にとっては一つの事––観察と一致する計算が導きだせるということ––で十分なのである」と述べたが,このオシアンデルに賛同する気がガリレイにあるかぎり,かれがその理論を教えることには何の反対もなかったのである.
もちろん,ガリレイ自身には,コペルニクスの体系が計算の道具としてすぐれていることを強調する気持は十分にあった.しかし同時に.かれが推測し信じてもいたことは,その理論が世界の真なる記述であるということ,であった.そしてこのことが,かれにとって(同じく教会にとっても)事柄の最も重要な側面なのであった.実際,かれには,その理論の真理性を信じるのに十分な理由がいくつかあったのである.かれは,望遠鏡をのぞき,木星とその衛星がコペルニクスの太陽系(そこでは惑星が太陽の衛星になる)の小型のモデルを形づくっていることを,すでに見ていた.さらに,コペルニクスが正しければ,内惑星は(そして内惑星のみが),地球から観察すると,月のような満ち欠けを示すはずであったし,ガリレイは望遠鏡で金星の満ち欠けをすでに見ていたのである.
教会には,「世界の新体系」の真理性について考察してみるという気持がなかった.この「新体系」は,旧約聖書の一説と矛盾するように思われたのである.しかし,このことが教会の主たる理由だったとはいえない.より深い理由は,約一〇〇年のちに,バークリー僧正がニュートン批判のなかで明瞭に述べている.
いわゆる素朴実在論と道具主義的見解,それに続く反証可能性に基づく科学哲学の話なのだけれど,フツーの人は知らんだろ,こんなん.あんま知ったかして信仰心熱烈な人をdisると彼らの永劫の地獄の業火から人びとを救おうとする正真正銘の親切心で生きながら火あぶりされるかもしれないので十分気をつけましょう.
ブラックジョークはさておいても,昨今のエロ本規制とかちょっと似た様な面があるのかなぁ,と思うのであった. :D
修正:若干のtypo.
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