O HAI THIS BLOG PURPZIEZ 2 B UZED AZ MAH PLESIOUS MEM. :)

2010/05/18

me += 2*GWL;

ライプニッツのモナドロジーと形而上学叙説を読んだ.バロックのアレなので,やっぱり所々神学の香りがするので万人におすすめとは言えんのが難しい.コイツも中公クラシックスのヤツなのだけれど,訳注や前説がなかなか良さ気でたいへんよろしい.

例によって,カッコイイ所をメモしておく.
「普遍数学」への魅惑
〔中略〕しかし,その無数の著作のどこにも絶望や断念の気分が感じられなかった.その力強いオプティミズムと理想主義は大いなる鼓舞であった.そうして,この東西古今に絶する広大な学識と無尽蔵の創見を蔵した哲学者が「主著」を成さず,最後の総括,あるいは「遺書」ともいうべき『モナドロジー』が二,三十枚の小篇であったことにも,彗星が無限の虚空の闇の中へ尾をひいて消えてゆくような感銘があった.これを書いたとき,われわれの哲学者(ライプニッツ)は,四十年間奉仕した宮廷からは見捨てられ,まったき不遇と孤独のうちにあったが,——
「善い人々とは,この偉大な国にあって,不平や不満をいだかない人である.自分の義務を果たしたうえは,神の摂理に信頼している人である.あらゆる善の創造者を,こよなく愛し,かつ模倣している人である.愛する者の幸福に喜びを感じる,あの真に純粋な愛の本性にしたがって,神のもつさまざまな完全性をうち眺め,心を楽しませている人である」
という言葉でその遺書を結んでいる.いささかの憂欝も翳りもない明朗なオプティミズムは,堂々たる哲人の風貌というほかなかった.

アカデミー建設計画
〔中略〕結局,ライプニッツの生涯をかけた雄大な諸計画は,ほとんどすべて完遂されずに終わった.しかし,それがすべて空想的な現実性のない計画であったからでなく,もっぱら時運による.あるいはあまりにも時代に先んじていたこと,あるいは一個人にあまる巨大さによる.しかし,彼のかくも巨大な文化的理念と,さらに何よりも不断ののかくも強靭な努力は,まこと天才的,英雄的というほかない.後世はライプニッツの理念と努力の成熟するのを目賭した.ライプニッツ自身は将来を確信して,自己の挫折に耐えた.彼は言う,「われわれは後世のために働かねばならぬことを告白する.人はしばしば自分の住まないであろう家を建てる,人はその果実をたのしむべくもない木を植える」.

孤独な晩年
ライプニッツの最後の歳月はまったく孤独であった.最後まで温かい理解者であり,保護者であり,友人でもあったゾフィ選挙候夫人もライプニッツに先だって死し(一七一四年),宮廷では顧みられず,もっとも偉大な学問上の競争者(ニュートン)との対立も激しさを増し,晩年をいっそう暗いものにした.ゾフィ・シャルロッテの早逝によって,ベルリンの宮廷ともつとに疎遠になっていた.生涯独身で終わり,友人もなく,まったく孤独であった.晩年は通風に病み,一七一六年十月十四日,まったき孤独のうちに世を去った.享年七十歳.
葬送には,四十年間尽瘁した宮廷から一人の参列者もなかった.僧侶や大衆は,ほとんど礼拝におもむかず,臨終にも最後の聖餐をしりぞけたライプニッツを無信仰者と見なした.プロイセン科学アカデミーもその創立者の死に対して沈黙していた.かえってパリのアカデミーでは,フォントネルが有名な頒辞を述べた––「世界に光を,ドイツに栄光をもたらした精霊」として.遺骸はノイシュタット宮廷教会に葬られた.これすら長く確実には伝えられずにいたが,二十世紀の十年代にはじめて発見された資料(彼の最後の助手フォーグラーの手記)によって明らかになった.
オレはよく思うのだが,不遇を訴えるのが当の当事者だとその訴えをどうも微妙に感じる.それは,多分,頭のどこかにこの手の楽観主義的な思考があるのだと思う.最近の暗いニュース的なモノは,この手のモノが多過ぎる.仕分け云々で予算を削られて騒ぎ出す人は研究者ばかりで,派遣切りとやらで更なる社会保障を訴える人は大抵そう言うカンジの元労働者だったり.当事者自身が現状を一番理解していて肌身で感じていると言うのは理解出来るけれど,もう一層上の印象としての不信感がオレにはある.

キケロが『宿命について』で言った怠け者の理屈と言うのがある.
病気からの回復が宿命なら,医者にかからなくても治る.回復しない事が宿命なら,医者にかかっても治らない.だからおまえは医者にかかる必要がない.
あなたの試みが成功する事が宿命ならば,あなたが何の努力もしなくてもあなたの試みは成功する.あなたの試みが失敗する事が宿命ならば,あなたがどんなに努力してもあなたの試みは失敗する.つまり,あなたが努力する必要は何処にも無く,あなたの努力は只の徒労である.この手の人たちがこう言う考えを持っているとは言わないけれど,自らの不遇を積極的に訴える輩は概ねして自らの努力を軽んじている様にオレには見えてしまう.確かに「じゃあ,どうすりゃええねん?」と言う鬼気迫った問いに「手前ぇ自身で何とかしろ」と突き放すのも微妙だが,本人自身がもう少し楽観的に構えて努力する方がカッコイイし,そっちの方がオレは助けてやりたくなる.自分の研究に予算が付くハズだと少しでも思えないのなら,その研究とやらはホンモノなんだろうか?働きたい意志を見込んで雇ってくれる人が居るハズだと少しでも思えないなら,その働きたい意志とやらはホンモノなんだろうか?

まぁ,あんまり長々と書くと根性論めいてくるし,オレ自身がそーゆー人たちに比べると多分恵まれている方なので,現状が分かっていない門外漢の戯れ言かもしれんが.

0 件のコメント: