去年から読んでいたポパーの「推測と反駁」を年末年始の休みに読み終わって,ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を少し読み始めた.会社のオレの机には幾つか本が飾ってあるのだけれど,今はその中の一つになってる.イイ感じに意匠になって大変宜しい.年度末までシミュレーションの激しく重いブツが続きそうなので,仕事をしているフリをしてチョコチョコ読む気満々だったりするのだったのだった. :DDD
で,新年の抱負でも書きますかね,書いておけばやるかもしれないからな.あんま”てくにかる”な事を書いても釣りネタにならないので,カントのネタで逝こうと思ふ.
人倫の形而上学の基礎づけ所謂西洋の刀剣の類いに比して日本刀を賛美する時,「折れず,曲がらず,よくキレる」ってのがある.何気にオレは刃物大好き男だったりするのだが,性格まで似ているのかもしれないとかエア思索した事があった.つまり,「(誰に叩かれようとも)折れず,(何を言われようとも)曲げず,(ちょっとしたことで)よくキレる」.
略
第一章 通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移り行き
われわれが無制限に善とみとめうるものとしては,この世界の内にもまた外にも,ただ善なる意志しか考えられない.理解力や機知や判断力やその他いろいろに呼ばれるところの精神の才能および勇気や果断や根気強さなどという,気質の持つ特質は,確かに多くの点で善なるものであり望ましいものである.しかしそれらは,またきわめて悪いものや有害なものにもなりうる.すなわち,それら自然の賜物を使用する任務を持つ意志——したがって意志の固有の性質は(才能や気質を別にして)性格と呼ばれる——が,善でない場合である.
略
いくつかの性質は,この善なる意志そのものを力づけて善なる意志の仕事を大いに容易にすることさえもできるが,しかしそれにもかかわらず,内的な無条件な価値を決してもたず,善なる意志をどこまでも前提にするのである.善なる意志は,そのような性質に対して当然人々が抱くところの尊重の念に制限を加え,そのような性質を絶対的に善なるものと認めることを許さない.たとえば,感動や欲情の抑制,自制,冷静な考慮は,さまざまな点で善であるのみならず,人格の内的価値の一部を形成する様にさえみえる.しかしながら,これらの性質を無制限に善であると言うことはとても出来ないことである〔それらは古人の無条件の賛美を得たにせよ〕.というのは,善なる意志の原理を欠くならば,それらの性質はきわめて悪なるものとなりうるからであって,一人の悪者の冷静さは,彼が冷静でない場合よりも彼をはるかに危険なものたらしめるのみならず,また直接にわれわれの目にいっそう厭うべきものとうつるからである.
去年も仕事中に何度かプッツンするなど,なかなかエキサイティングしていた訳だが,性格はそう簡単には直らんわな,常日頃からちゃんとせねばならん.つー訳で,今年は頑張って逆刃刀で武装しようと思います. :DDD
修正:若干のtypos.
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