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2009/11/14

$((A \subset B) \land B) \subset A$

この前も書いたけど,個人的にはあんまりオレオレ形而上学的な事は言いたくないんだよなぁ.ヒキコモしながらエア思索する事は良くあるけど,その手の事はあんまり話題にはしないし,したくないんだよなぁ.まー,喋る相手も居ねぇが. :P

最近の流行の形而上学は知らねぇけど,フツーの大学の学部まで勉強したなら形而上学の歴史で出てくる人の中にカントが居るのは知っていると思う.リンク先にも書いてあるケド,カントもフツーの人とは哲学ちっくな話題を交えるのを露骨に嫌がってたらしい.その辺りの感覚は何となく分かるんだけど,今までキチンと納得出来てなかった.

最近,難しかったので積読して本棚のこやしになっていたカントのプロレゴーメナを発掘したので,もう一度挑戦してみたら,この手の不機嫌の理由を説明しやすい言い回しがある事に気付いた.
序説 一般的問題
いかにして純粋理性からの認識は可能か

(中略)

そこで,この上も無く重大である本来の課題は,厳格な正確さで言い表すと,次の様になる.

いかにしてア・プリオリな綜合的命題は可能か.

(中略)

ところで,形而上学の存亡,したがってその存在はまったくこの課題の解決にかかっている.だれにせよ形而上学において自分の主張をどんなにもっともらしく述べようとも,また息がつまるほどに,推論に推論を積み重ねようとも,もし彼が先の問いにまず十分に答えることができなければ,それはすべて空虚な,根拠のない哲学であり,偽った知恵であると私が言っても正当であろう.君は純粋理性によって語り,そしてただ与えられた概念を分析するだけではなく,矛盾律によらない,しかもまったくすべての経験から独立に君が見抜いたと思い込んでいる新しい結合を申し立てて,それでア・プリオリな認識をいわば創造したと君は誇らしげに言う.それなら,君はいかにしてこれに至ったのか.いかにして君はそういう自負について自分を正当化しようとするのか.常識の賛成に訴えることは君には許されない.なぜなら,常識という証人は,その尊敬が単に世評にもとづくものにすぎないからである.

君がそう私に示すすべてを,私は信ぜず,これを嫌う.

ホンの一部引用しただけだし,もちろんこれで終わりじゃあなくて,この先もかなりイイ事が書いてあるんだけど,引用すんのダルいし十分だろ.一番長ぇ所を蝶意訳してみるか.

つまり,オレオレ主張の価値は「なんでそーゆーオレオレ主張出来るのかと言う理由付けが出来るか?」に生命線が走っている.誰が唱えようと,どんなにもっともらしく聞こえようとそんな事ぁ,関係無い.首が絞まるくらい論理をこねくりまわしてもこの質問に答えられないなら,「何?そのオレオレ主張,マジウケる,腹痛ぇ.」とかミソクソに言われても仕方が無なくね?テメーはそれっぽく,かつ偉そーに自説を開陳しまくっている様だが,根拠はキチンとあるんだろうな?なんか分析した結果だとか,論理的に推論したとか,経験したとか,まして「常識だろ?」なんて言わせねーぞ.常識なんかは時が経てばコロコロ変わっちまうじゃねーか.

あー,説明すんのって面倒臭ぇなぁ. :DDD

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